【第8話】新工場に受け継がれた、山梨工場マインド
2018-01-18
2017年12月1日より新工場が本格稼働、真新しい職場環境での日々がはじまっている。
新工場設立に伴い、本社工場と山梨工場は統合されたため、山梨工場に所属していたスタッフ7名が本社に合流する形となった。
山梨工場ではこれまで、主に外径4ミリ以下の部品の製造を行ってきた。小さな部品は精度を出すことが難しいため、高い専門知識と技術を求められる。そのため、山梨工場はMIZUKIクオリティーを一歩も二歩も前進させてきた場でもあり、優秀な技術者を育て、輩出した場でもあった。今回は、山梨工場に所属していた3名に話を聞いた。山梨工場で培ってきた技術とマインドも、本社工場に注がれていくのだと確信できるインタビューとなったので、紹介したいと思う。
たった3台の製造機からはじまった山梨工場
1986年、当時本社工場があった東京都町田市は近隣が住宅地ということもあり、製造音を出しながら24時間稼働することが難しくなっていた。日本経済は成長期を迎え、我が社も生産量を上げるため工場を拡大する必要に迫られていた。そこで当時の社長である水木六郎は、本社からさほど遠くなく、工場設立に適した環境を兼ねそろえた山梨県都留市に新工場を設立することを決断。
設立当初は、3台の機械でのスタートだったが、山梨工場を今後メインの製造拠点と発展させる計画であったため、積極的に新しい機械の導入を進めていた。またその活気に引き寄せられるかのように、地元の優れた技術者たちが集まった。山梨には元々高いスキルを持つ技術者が多かったことも幸運だった。
効率的で高い生産性を確保するため、 φ4以下、特にφ1.6以下の精密ネジの生産を山梨工場、それ以上のサイズは本社で製造していたこともあり、山梨工場は、1/1000の単位での技術を要求される厳しい現場であり、一人ひとりの技術力を磨き合う場でもあったそうだ。 17年間山梨工場に勤務し、現在は製造技術部の係長を務める小俣は次のように語る。
「山梨工場は全スタッフを合わせても8人。人数が少ない分、プライベートでも家族ぐるみでバーベキュー大会をしたり、定期的に飲みに行ったりする和気あいあいとした雰囲気が特徴でした。しかし、扱っている製品はとても精密な技術を要されるもので、仕事中は先輩後輩の壁を越え、互いに切磋琢磨し合い、技術力を高め合う風土があった。決して慣れあいになることのない団結力が、僕の誇りでもありました」
山梨工場に届いた、一通の感謝の手紙
より精度が求められる部品の製造拠点として機能してきた山梨工場は、営業部門がないため、直接お客様とやり取りをすることは極めてまれだった。そのため、山梨工場の存在を知る社外の人は少なかった。しかし、その山梨工場に一通の手紙が届いたことがあるという。
小俣に印象に残っているエピソードを聞いたところ、その手紙について語ってくれた。
「お取引先の方より、山梨工場に直接お手紙をいただいたことがあるんです。そこには私たちの手掛けた製品についての感謝の言葉が綴られていました。山梨工場から直接納品しているわけではなかったので、きっと当時、本社にいた営業部のスタッフが山梨工場の製品であることをお客様に何らかの形で伝えてくれたのだと思います。日頃、お客様と話すことも会うこともない私たちにとって、お客様から直接感謝の声をいただけたのは本当に嬉しく、今でも記憶に刻まれています。ここまで地道に技術を積み上げてきてよかった、さらに喜んでいただけるよう頑張ろう、と前進する力を与えてもらった出来事でした」
現在小俣は、新工場へは山梨の自宅から車で通勤している。
新工場での勤務について「最初は、まるで転職をしたような気分だった」というが、17年間プライドを持ってものづくりに携わってきた技術力をさらにレベルアップさせたいと語る。
「私たちが作る部品は、ありがたいことに大変高価な商品にも使っていただいています。自分がお客様の立場だったら、せっかくお金を出して買った商品の中に、ほんの少しでも質の悪い部品が使われていたら心底がっかりする。そんな仕事は絶対にしたくない、その想いがこの17年間、技術を磨く原動力となってきました。これからは技術を磨くことはもちろん、MIZUKIを担っていく若手を育てるという点においても自ら進んでやっていきたいと思っています」
嬉しくて心が震えた、モノづくりの現場
山梨工場で主任を務めていた山梨(※名字です)にも話を聞いた。
山梨は、入社7年目で技術習得のために本社から異動し、3年の月日を山梨工場で過ごしてきた。本社工場では扱ったことがなかった0.8ミリ~4ミリという、MIZUKIで扱うネジの中でもかなり小さい部類に入るネジの圧造加工を担当する。
本社工場で担当していたサイズのネジを製造する機械であれば、目視で確認できていた箇所も、小さなネジを作る機械は本体そのものが小さいため、目視できない箇所がある。そのような箇所は、長年の経験と勘を生かし、指先に伝わる感触だけで最終的な調整をしていたのだ。
「自分にできるのだろうか…」
愕然としながら職場に入った山梨を支えたのが、勤続20年を超え、若手の指導担当をしていた佐藤をはじめとした山梨工場の仲間たちだった。
「先輩たちは本当につきっきりで仕事の進め方を教えてくれました。失敗しても怒るのではなく、『次はどうしたらうまくいくか?』をとことん考えさせる指導でした。
山梨工場に赴任してしばらく経ったころ、『時間をかけてもいい、失敗してもいい。とにかく最初から最後まで自分で考えて1人でやってみろ』と。今考えても驚くほど時間がかかってしまったのですが、何とか最後まで1人で完成にたどり着きました。そうしたら、今まで手を出さずじっと見守っていた先輩たちが肩を叩いて喜んでくれたのがものすごく嬉しくて…。その時に〈ものづくりって面白い〉と心の底から思えたんです。その後は、この経験があったからこそ、いかに効率的に質のいいものを作るか?という新たな観点を持てるようになりました」
手先だけはなく、考えられる職人であれ
そんな山梨への指導も任されていた佐藤は、山梨工場では勤続年数が一番長く、会社が苦しい時期も成長してきた時期も体験してきた貴重な存在だ。お客様から求められる精度は年々高まっており、MIZUKIが今後さらに成長するためにも、若手への技術の継承はとても重要なことだと認識している一人でもある。
MIZUKIのものづくりの継承について佐藤は過去を振り返りながらこう口を開いた。
「勘どころのある人、すぐには技術を身に着けられない人など様々な人がいるが、私は誰に対してでも『自分の子供だったらどうやって教えるか?』という視点で指導にあたってきました。よく『佐藤さんのようにできるようになるにはどうしたらいいですか?』と尋ねられましたが、そのたびに『俺もお前たちが今やっているような失敗を何度も何度もしてきた。失敗することが人より多かった分、どうしたら次に成功させられるか?を考えることが習慣になった。それが今の俺を作っているんだよ』と言っています」
佐藤は今回の本社への移転を機にMIZUKIを後にすることを決めた。代表の水木はじめ、皆がその退職を止めたというが、「できる限りのことは後輩たちに伝えてきた。何年か経ったときに『佐藤さん、あの時教えてくれたことができるようになったよ』と言ってもらえる日が来たら、そりゃ嬉しいだろうな」とその目は晴れやかだ。
「20年の勤務では、本当にいろいろなことがあった。でも、どんな時もMIZUKIにはいい上司、いい仲間がいて、ここ数年は若手への指導も任せてもらえた。自分の中では大好きなものづくりに徹し、そこで得たものを次の世代に引き継げた。やり切ったというのが率直な感想かな。山梨工場のみんなには一人ひとり感謝状と卒業証書を渡したい気持ちです」
山梨工場から本社へ勤務地を移す仲間へ、何かメッセージはあるかと聞いたら、次のように話した。「単なる仲良しグループではMIZUKIは成長しない。もし作られたものが少しでもおかしかったら見て見ぬフリをしない、意見の言い合える本当の意味での“仲間”でいてほしい」
山梨工場から託された、バトン
山梨工場統合の背景には、エンジニアや製造拠点を集中させることで、圧倒的にスピーディーで高品質な納品を可能にするというMIZUKIの決意が込められている。
山梨工場から異動してきたメンバーに対し、代表の水木は次のように語った。
「山梨は外径4ミリ以下のネジの製造をメインに扱ってきたため、精密なものづくりのノウハウがあり、また新しい技術なども好奇心旺盛に取り込むマインドがある。『見て見ぬフリ』をしない小所帯ならではの気づきの良さをぜひ本社でも発揮してほしい」
本格稼働した新工場は、山梨工場から異動してきたスタッフにとっては、賑やかな環境だろうし、大所帯ゆえに今まで以上に担当する業務も増えるだろう。そのことに対し水木はこうも語る。「山梨工場が培ってきた良さを思う存分発揮できるよう、業務に集中できる環境を整えたいと思っているし、そこは私の役割だと思っている」
本社、山梨工場のお互いの良さをミックスして、さらにお客様に感動を与えられるチームになるべく、新生MIZUKIの船出がはじまった。
これまでのMIZUKIを築き上げてきた諸先輩方の技術とマインドを受け継ぎ、これからのMIZUKIを創っていく時が来たのだ。